判定に納得しない人は誰……

男子柔道66キロ級の準々決勝での「判定覆り」が話題になりました。今回問題になった柔道の「ジュリー制度」は2007年に導入されたとのことで、改善する余地はまだまだあるようです。でも、一歩下がったところにいる審判がコート上の審判に保留をかけて協議で再判定する仕組み自体は、相撲の「物言い」に似ていますね。こちらは定着しています。

 

ちょっと違いますが、テニスでは選手が試合中にビデオ判定を依頼することが何回かまで許されています。サッカーではこの先ゴール判定にVTRを導入することが決まりました。ワールドカップなどでは審判の正確さを審判する審判もいて、審判の質を高める仕組みもあります。審判だって間違うこともあるでしょうから、選手が「おかしい」と思ったときにある程度異議申し立てできるのは、選手も納得できてよいのではと思います。実際、テニスでは選手の異議申し立てが当たっていることが多い。日々の練習を積み重ねている選手にとって、ラインを割った、割らないの感触はよく分かるのでしょう。そういう意味では今回の柔道の再判定で、日本の海老沼選手が「おや」と思ったらしいのが若干気になりますが、ルールを受け入れて次戦に臨みともに銅メダルをとった両選手が立派でした。

 

さて、歴史において、日本の過去の戦争は「侵略戦争という大きな過ち」であったと判定を下されました。それに対していまだに「南京事件はでっちあげだ」「自衛のための戦争だった」などと物言いをつける政治家がいる日本。2000万人の犠牲者を出した戦争の結果を直視しないこの物言いは、単なる「負け惜しみ」にしか映りません。

韓国では自衛隊への拒否感が根強く、日本政府と軍事情報協定・物品役務相互提供協定を結ぼうとした韓国政府に世論が反発をして、政府高官の辞任に至っています。締結できれば「歴史的な出来事」と期待をするわが国政府の「侵略した側」の無神経さが恥ずかしい。日米韓の連携強化の一環をめざして締結を急いでいるそうですが、それを必要としているのは誰なのか? 日本がアジアの一国として生きることを本気で考えたら、いま何をしなければいけないのか? 脱原発ほどの大転換が必要なときではないでしょうか。